夏…そして61年前
2006.07.29 Saturday

被爆後の広島。
今の私たちが想像するそこは、テレビで報道されているイラクなどの
破壊後の有様を、その混沌をベースに思うしか無いのだけど、
先日、被爆経験のある女性とその甥が、
被爆証言の映像化に取り組んでいるというニュースを目にした。
その一こまに、当時の銀行職員の女性の証言があった。
現在広島市中区袋町に存在する旧日本銀行広島支店(被爆建物として数年前に広島市へ無償で譲られた。)は、当時爆風による被害はあったが建物自体は深刻な破壊からは免れ、2日後には広島市内にあった各銀行が机一つを借りる形で、預金の払い出しに応じたそうだ。元銀行員の女性の語るに、「人はあんまりひどい目にあった状況では嘘が言えないらしく、うちにはこれこれ位い、預金があったはずなんですが…と言われる通りに、通帳も印鑑も無く払い出しに応じたのだけど、後々、元帳と照らし合わせてみればその通りで、一つの嘘も無かった。」というのだ。
これに関しては、元日銀職員で広島のもみじ銀行元頭取の篠原康次郎氏の証言からも一致している。*1参考 焦土の中で泊まり込み 復興を支援
「被爆二日後の八月八日には市内にあった十余りの銀行が(日本銀行広島)支店内に机を一つずつ設けて営業を再開。通帳や印鑑のない市民にも預金の払い出しに応じた。二重払いやだまし取られたケースは一件もなかったという。私は当時の関係者から「荒廃の極にあっても人間の性は善である」と聞かされたものだ。」
同じように、広島市内電車(広電)においても、3日後にはがれきの街の中を走ったという。
*2参考 被爆後の路面電車
「一番電車
ゆっくりゆっくり運行した 運転台の外は地獄さながら 」
原爆投下の三日後、「一番電車」を走らせた元広島電鉄社員の山崎政雄さん(76)の体験
広島電鉄の社史などによると、社員や軍関係者ら約40人が原爆で壊滅状態となった広島市内の軌道路線の応急修理に当たり、1945年8月9日に己斐―西天満町間が復旧した。爆心地から約15キロの廿日市変電所(廿日市市)からの送電を頼りに、被災を逃れた車両による折り返し単線運転が始まった。
広電家政女学校の生徒らが車掌を務め、被災で財産を失った市民からはしばらくの間、電車賃を取らなかったという。同年9月までに市中心部の軌道路線が復旧し、48年12月に全線開通した。
被爆した車両は現在も4両が現役で、市内線を走っている。
こういう復旧に尽力した人々もまた、被爆者であったし、家族を失ったり行方知れずになっていたり、重傷を負っていたりと、大変な状況だった事だろう。
電車の車掌を女学生が担当したように、いろいろな世代が一生懸命支え合っている様子が見える。
いったい今時分に 同じような状況を迎えたら私たちはどんな行動に走るのだろうか。
本当にひとの本性は善であるといえるだろうか。そう…考え込んでしまった。
「被爆二日後の八月八日には市内にあった十余りの銀行が(日本銀行広島)支店内に机を一つずつ設けて営業を再開。通帳や印鑑のない市民にも預金の払い出しに応じた。二重払いやだまし取られたケースは一件もなかったという。私は当時の関係者から「荒廃の極にあっても人間の性は善である」と聞かされたものだ。」
同じように、広島市内電車(広電)においても、3日後にはがれきの街の中を走ったという。
*2参考 被爆後の路面電車
「一番電車
ゆっくりゆっくり運行した 運転台の外は地獄さながら 」
原爆投下の三日後、「一番電車」を走らせた元広島電鉄社員の山崎政雄さん(76)の体験
広島電鉄の社史などによると、社員や軍関係者ら約40人が原爆で壊滅状態となった広島市内の軌道路線の応急修理に当たり、1945年8月9日に己斐―西天満町間が復旧した。爆心地から約15キロの廿日市変電所(廿日市市)からの送電を頼りに、被災を逃れた車両による折り返し単線運転が始まった。
広電家政女学校の生徒らが車掌を務め、被災で財産を失った市民からはしばらくの間、電車賃を取らなかったという。同年9月までに市中心部の軌道路線が復旧し、48年12月に全線開通した。
被爆した車両は現在も4両が現役で、市内線を走っている。
こういう復旧に尽力した人々もまた、被爆者であったし、家族を失ったり行方知れずになっていたり、重傷を負っていたりと、大変な状況だった事だろう。
電車の車掌を女学生が担当したように、いろいろな世代が一生懸命支え合っている様子が見える。
いったい今時分に 同じような状況を迎えたら私たちはどんな行動に走るのだろうか。
本当にひとの本性は善であるといえるだろうか。そう…考え込んでしまった。